伝習会 第193回 (H31.1.1)
伝習会
〈 第百九十三回 〉
【鼎の軽重を問う】…左伝 宣公三年(紀元前七七〇年頃)
(訳…【鼎】は中国古代文明の青銅器の中でも最も重んじられた器で、お供え物の
祭器として、また戦功の在った者に下賜されたものでした。権力者にとっては、
大事な権力の象徴でした。その軽重(軽いことと重いこと)を問うということは、相手の権力を軽んじ、天下を取って変わろうとすることを意味します)
~ 権力者が、この言葉【鼎の軽重を問われる】ようになっては、権威も
地に落ちたことになります。しかし、みだりに【鼎の軽重を問う】ことは、
大変ぶしつけであり、失礼なことであります。
これは、紀元前千百年頃、【殷の紂王】を滅ぼし、周王朝を建国した
【武王】も、三百年余り経って勢いが衰えた紀元前七七〇年頃、各地に群
雄が割拠した春秋時代になりました。諸侯の一人、楚の【荘王】が周を滅ぼ
し、自らが天下を取った暁に、周にある【鼎】を楚に運ぶために、周の
【定王】の使節、王孫満に尋ねた言葉です。
【楚子、鼎の大小軽重を問う】、楚子、つまり楚の【荘王】は、周の【鼎】の大きさと重さを聞きました。すると使節の王孫満は、【徳に在りて鼎に在らず……今、周の徳、衰うといえども天命未だ改まらず。鼎の軽重未だ問うべからず】、【鼎】の大きさや重さというものは、持ち主の【徳】によって決まるものであって、【鼎】自体の重さや大きさが問題なのではない。
今、周の王室の【徳】も衰えたが、天命改まって滅びた訳でもない。
だから、【鼎の軽重】を他人が問うべきではないし、問われる筋合いもない、と反論したのです。
これに対して、楚の【荘王】も返す言葉が、なかったのではないでしょ
うか。【鼎の軽重】は持ち主の【徳】によると、孔子が【徳】を重んじた
ことは周知の通りです。この【鼎の軽重を問う】言葉は孔子の撰による
【春秋左氏伝】(または【左伝】という)にありますが、まさに孔子の
徳の高さが伺われる言葉ではないでしょうか。~