伝習会 第2回(改訂版)
伝習会
< 第二回 > (改訂版)
【 太公望 】……史記・六韜
(太公望は、周(B.C1100年頃)の時代に活躍した呂望またの名を呂尚という人に付けられた名前です。今では釣り人や釣りの好きな人の代名詞に使われています)
呂望(亦は呂尚)が太公望という名前になった経緯には、司馬遷の史記と兵法書の六韜の二つに書かれている説話があります。六韜には、周の文王(西伯昌)が「謂水で狩りをする。吉の方角を占え」と、史官に命じたところ【獲る所は龍に非ず、蛟に非ず、虎に非ず、樋熊に非ず。獲る所は覇王の輔なり】(猟の獲物は龍でもなく、蛟でも虎でも樋熊でもありません。覇業をなすに足る輔弼の臣を獲るであろう)と出て、周王(文王)が太公望と邂逅して師と仰いだという説話です。また、司馬遷の史記では、周王が狩りに出て謂水の辺に来た時、一人の老人が釣りをしていた。文王は“これだ!”と閃き、老人に声を掛けました。わしは先君の太公(文王の父・季歴)が「まもなく聖人が現れ、この国(周)を隆盛に導くであろう」と言っていたことを思い出して“これぞわが先君・太公が待ち望んでいた人物である”と喜び、太公望と呼び、召し抱えたという説話です。その後、太公望は周公旦(文王の四男)と力を合わせ、殷(亦は商)の最後の王・紂王を倒し、新しい周王朝(初代王は文王の子・武王)の時代経世に大きな功績を遺した人として、現代にまでその名を轟かせています。
今でも中国では、太公望が釣りをしていた所として「釣魚台」が観光名所になっているそうです。川柳“釣れますか などと文王そばにより”