伝習会 第78回
伝習会
〈 第七十八回 〉
【田中角栄を偲んで】
1.新潟県刈羽郡西山町坂田1540番地
2.父・角次、母・フメ 7人兄弟(女6人、男1人(角栄))
3.大正7年(1918年)5月4日生まれ(干支・戊午(つちのえうま))
【語録】
(1)昭和21年 戦後初の総選挙で進歩党公認で初出馬するも落選
『若き血の叫び』での演説、「私が当選した暁には、必ず三国峠を崩す。そうすれば、
季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなる。大雪に苦しまなくなる。」
(翌22年初当選)昭和60年10月関越自動車道が開通
(2)史上最年少(44歳)の蔵相就任で挨拶
「私が田中角栄です。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才の代表であり、
財政金融の専門家だ。私は素人だが、刈羽村の貧乏人の子として生まれ、人生の苦し
みも味わったし、トゲの多い門松を沢山くぐって来て、いささか仕事のコツを知って
いる。納税する国民の立場で政治を行ないたい。」
(3)【越山】の由来(S40年創刊)
☆…号は、『霜は単営に満ちて秋気清し、数行の過雁月三更、越山併せ得たり能州の
景、遮莫、家郷遠征を憶う』(上杉謙信の十三夜陣中の作)からとった【越山】か。
☆ …または、字義通り越後の山という意味と、東京と行き来するには、上越国境の山
を越えなければならないという意味か。定かではありません。
(4)総裁選に臨むにあたって(檄文)
“事を為すは天にあり。事を計るは人にあり。我志を得ざる時は「乾坤不抜」。
我まさに志を得んとして「大胆不敵」。我光を得れば「油断大敵」。”
(5)1972年7月7日 第64代内閣総理大臣就任にあたって
「働き者の越後もんの名を汚しません」
(6)1974年11月26日 退陣表明
「我が国の前途に想いをめぐらす時、私は一夜、沛然(はいぜん)として大地を打つ豪雨に
心耳を澄ます思いであります。」(豪雨を国民の声として聞き、自らの「処と退」を決断した心情)
(7)1983年10月12日 一審判決に対する所感
「内閣総理大臣の職にあった者として、その名誉と権利を守り抜く為にも、不退転
の決意で戦い抜く」
(8)「【政治家は私一代】孫や子には金輪際やらせません」
(9)色紙に書いた言葉
「信為万事本」「温故知新」「末ついに海となるべき山水もしばし木の葉の下くぐるなり」「對青山依緑水」「賢者は聞き、愚者は語る」(公で最後の言葉)
☆1985年(S.60年)2月27日東京逓信病院に入院。
★1993年(H.5年)12月16日死す。合掌 75歳7ヶ月。