伝習会 第115回
伝習会
〈 第百十五回 〉
【吾が道は、一以って之を貫く】……論語(里仁第四)
(訳…わが人生は、一つのことで貫かれている。衛霊公第15にもある)
~ 人生、なにか“これは”という少しもブレない、確立した行動なり思想の
基準を生涯持ち続けられれば、素晴らしいことでしょうね。
これは、次の、孔子と曽子の問答にあります。
☆子曰く、【参よ、吾が道は一以って之を貫く】(孔子が言われました。参よ、
(曽子=曽参)吾が道は一つのことで貫かれている)
☆曽子曰く、【唯】(曽子はただ、「はい」と答えました。)子出づ。(孔子が出ていった)
☆門人問うて曰く、【何の謂いぞや】(他の門弟が、今のは、どういう意味ですかと問う)
☆曽子曰く、【夫子の道は、忠恕のみ】(曽子が答えた。先生の生き方は忠恕で貫かれている)
この【忠恕】とは、誠実で思いやりが深いことです。【忠】は、自分の良心に忠実であること、いわゆる真心です。【恕】は、他人に対して思いやりの深いことです。【恕】という字は、【心】と【如】が合体されています。これは、いつも相手の立場に立ってものを考える優しさと思いやりのことを言います。
別の言い方をするならば、相手の心を我が心の如く愛せよということです。
兎に角、孔子という人の根本を貫いていたのはまさに、この【忠恕】で、いささかもブレがなく、統一されていました。他の門人には分からなくても、曽子にはよく分かっていたので、ひびきに応ずるが如く、ただ、【唯】。「ハイ」と答えたのでしょう。
また孟子という人は、孔子のこの【恕】は、どうも分かりにくいと言って、彼は【しのびざるの心】と説きました。これは他人の悲しみや苦しみを見るに忍びないということです。よちよち歩きの子供が、今まさに川に落ちようとしていた。それを見た人は助けなきゃと衝動的に駆け出して行くでしょう。その衝動のことを【しのびざるの心】と言うんだと。
【吾が道は一以って之を貫く】を白文で記しますと、【吾道一以貫之】です。
一筆したためる時など如何でしょうか。~